著名者インタビュー
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 2002/7-8
企業繁栄の永続を支える「守成」の教え


ジャーナリスト
岡田 清治氏
1942(昭和17)年、大阪市に生まれる。1966(昭和41)年、日刊工業新聞社編集局入社。大阪支社編集局長を経て、現在、執行役員西日本担当大阪支社長。

主な著書は「バイオの世界」「アートテクノ サントリーの技道」「リヨンで見た虹−映画技術の歴史」など多数。
 
 企業繁栄の永続を支える「守成」の教え
 最近、俳優の小林稔侍さんが演じる中小企業向けのテレビCMで、徳川家康を祭る日光東照宮をバックにした「創業は易し、守成は難し」――のキャッチコピーをご覧になった方も多いでしょう。
 創業は分かっても、守成という言葉が一般になじみが薄く、よく分からないという人も少なくないと思います。守成の教えは、トップの考え、行動で大きく変わる中小企業やベンチャーの経営者にはぜひ知ってほしいし、大企業の経営者も経営の根本に据えてもらいたいと願っています。
 平成不況といわれるいま、目先の利益確保こそが急務だと思われているかも知れませんが、そのことだけに目を奪われていると、繁栄を永続することが困難になる心配も生じます。多忙な中でも、ふと立ち止まって自らの行動原理を思いめぐらしてみてください。

 

 守成の意味

 私は1990(平成2)年4月、PHP研究所から拙著「守成の経営」を出しました。当時はバブル経済の絶頂期で、守成という言葉になじみがない上に、「守」という文字が良くないという指摘を何人かの経営者から受けました。いま、振り返りますと、発行のタイミングとしてはどうだったかという反省はありますが、バブル経済の時代だったから意味があったと思っています。
 先に紹介しましたキャッチコピーは中国の十八史略に出てくる有名なことわざですが、企業は創業するときも大変ですが、繁栄しながら永続する方がもっと困難であるという教えです。同じ発音で「守勢」があります。これはディフェンスオンリーです。守勢の反対語は攻勢です。ところが守成の反対語は創業です。守成は繁栄を継続することを意味します。創業期に守成型の経営者は失敗しますが、逆も真なりです。社員でも、経営者でも、調子がいい時に守成を忘れがちで、失敗したケースは枚挙にいとまがありません。

 

 国も企業も同じ

 中国の秦の国は、始めて広大な中国を統一、最初の皇帝だから秦の"始皇帝"と呼びました。あの広大な中国を統一することは、大変な事業でした。ところが、わずか14年で秦は崩壊したのです。このことから、創業より守成が難しいと言われています。
 日本に目を転じますと、戦国時代の群雄割拠の中から、織田信長が日本の統一に向けた大事業に着手しました。ところが、明智光秀の謀反で若い命を落としました。次に豊臣秀吉が登場、事業を継続、着々と進めますが、二代目で没落、最後に徳川家康が仕上げます。そして徳川家は明治維新まで15代という長期にわたり続いたのです。創業は織田信長ですが、守成は徳川家康です。家康にこそ、守成の考え方、哲学が多く見られます。ドラマとしては信長、秀吉がおもしろいですが、永続の秘訣の教えとしては断然家康が優れています。
 近代日本の創業は明治です。日清戦争、日露戦争に勝利した日本は、有頂天になり、守成を忘れました。第二次世界大戦後、再び創業期を迎え、バブル経済でまた守成を忘れ、再び崩れたのです。いま、産業構造の転換という第二の創業期に入っています。だから、政・官そして民もベンチャー育成を求めているのです。

 

 松下幸之助翁に学ぶ守成

 信長、秀吉、そして家康それぞれの教えや戦略を創業期から大企業へのし上げるなかで採り入れた実業家のひとりが、松下電器産業の創業者、松下幸之助翁だと思います。
 松下幸之助翁は病弱だったので、信長のような激しい気性のイメージはありませんが、翁の生涯を通じて見てみると、若き日の幸之助翁はやはり信長であり、人生のなかほどは秀吉であり、最後は家康に変身していったように思われます。その松下電器産業も創立85年でトップはすでに五代目で、三代目以降の経営者は松下家から離れています。企業は代替わりの時が難しいと言われます。二代目は先代(親父)のやり方を踏襲するように思われますが、いつの世も二代目の内面では先代を抜くことが目標になり、ライバルとなっていきます。その二代目こそは守成の考えをもたないと、成果を急ぐあまりつまづくことになります。

 

 創業100年のカベ

 企業の場合、永続とは100年以上が一応の基準です。ただ、今日では明治、昭和、平成の維新をくぐり抜けた企業だと考えますと、120年以上ということになるかも知れません。企業の寿命は30年と言われています。確かに、30年ごとに企業規模のランキングを見てみますと、トップ100はめまぐるしく変わっていることが分かります。新商品や新事業でみますと、3年で大きく変化しているように思えるほど、時代の変化が激しいのです。
 概算で言いますと、100年以上の老舗といわれる企業は、東京150、大阪250に対して王城の地・京都は700と断然多いことが分かります。京都は都であったから当然と思われるかも知れませんが、明治維新で東京遷都により、大企業や名門企業が本社を東京に移したため人口が激減、安宅産業クラスの大企業が20数社倒産、火の消えた街になったのです。そしてその老舗群の多い経営風土の中から京セラはじめ、新規企業が陸続と出てくる不思議さを思うのです。
 いずれにせよ、明治維新、敗戦の昭和維新、そして現在の構造改革の平成維新の三大維新をくぐり抜けて繁栄を続けることは、企業の大小を問わず、大変なことです。
 山一証券はちょうど創業100周年の年に幕を下ろしました。最近では老舗の名門、雪印食品が解体されています。私の祖父が勤めた「そごう呉服店」(のちの百貨店そごう)もしかりです。信長型だった企業が、うまく時代に合わせて変化できずに、苦戦している企業は少なくありません。
 ダイエーは安売り哲学を掲げて流通革命を起こした覇者でした。考えてみますと、デフレ時代になりますと、安売り競争はダイエーの創業者・中内 功氏が考えていたことをはるかに越え、すさまじいものがあります。結局、新興の流通業者は、固定費、とりわけ人件費を若い社員やアルバイトによって抑え込んでいきますので、老舗の流通業者ほど苦しくなります。そうした若い流通業者は信長型の経営をしますので、一挙に市場を獲得します。その代表例がユニクロでしょう。かつてユニクロの企画から生産、販売にいたる一連のシステムが絶賛されました。ところが、このシステムを真似るところが現れ、ユニクロも苦戦を強いられることになりました。

 

 守成のキーワードの一つが“不易流行”

 それでは守成の経営とは、どういうことかを説明します。いくつかの考え方の一つに、不易流行があります。これはもともと、俳句の世界で松尾芭蕉が考えた俳句観です。芭蕉は全国を行脚しましたが、以前訪れたところが戦乱でひどい荒れように驚くのですが、一方で美しい川や山は、今も昔も変わらないことを知ります。この相反する風景が一体化するのが俳句の極意だと言うのです。
 もともと不易の「易」は、蜥蜴の「蜴」の易からきたものです。蜥蜴の皮膚は千変万化することから、「変わる」、「変える」という意味になり、不易は「変わらない」、「変えてはいけない」ということです。つまりは、いかなる世になっても絶対に変わってはならないもの、変えてはならないことが、不易です。一方、流行は文字通り、その時代に合わせていくことです。この相反することを一つの事業や企業でやらなければならないところに難しさがあります。
 それでは、この不易流行の考えをもつには、「知足」、「分限」の心を養成しなければなりません。知足とは、足るを知るということで、煩悩のおもむくままに進みますと、人間の欲望は無限ですので、必ず生き詰まるということです。分限は家康が厳しく教えたことですが、「分」とは、つまり能力のことで、分をわきまえよという教えです。腹八分目というのは、分限思想からきているのです。能力を全開し続けますと、つまずいたときの被害が命取りになるということです。
 不易流行をケーキにたとえますと、土台のカステラの部分は変えてはならない不易の部分です。流行は時代に合わせて時にはゴージャスにしたり、健康重視の嗜好に合わせたりと、顧客満足を追求していくのです。ただ、土台のカステラづくりではどこにも負けないという気概と技術が求められます。デコレーションの部分は失敗することがあっても、カステラのおいしさは負けてはならないのです。
 陶芸家の14代酒井田柿右衛門氏(人間国宝)は「350年以上の伝統がある柿右衛門は、時代が変わっても変化しないものもあれば、時代とともに変わるものもあります。変わらないのは技術です。伝承された技術の上に、今の人に受け入られる作品を作っていくことが伝統だと思います」(日経ビジネス2001年8月6・13号)と語っています。
 企業経営で守成は難しいのですが、人間の生涯でも同じです。最近の新聞の政治や社会面を見ていますと、人生の晩節を汚している人が多いように思います。それも活躍してきた人に多いのです。信長型から、秀吉、そして家康型に切り替えられないからではないでしょうか。なぜでしょう。その一つは損得で行動するためだと思います。それも社会のためよりも、自分あるいは自社のための損得勘定に陥るからです。損得に加えて、善悪のモノサシをもつことが、守成の教えです。